「24時間テレビ」の企画・制作側が、本来の意義や意味は、何も考えていないという現実を理解する
1987年
日本テレビの「開局25年記念番組」として始まった「24時間テレビ」は、チャリティー番組の代名詞でありつつも、これまでも少なからず批判をされたり、揶揄・嫌悪の対象になってきた経緯がある。
「チャリティー(といった批判できない対象)を利用したビジネス」への不信感を、一手に引き受けてきた24時間テレビだが、一方で、ボランティや福祉などをテーマにしたテレビ番組は、近年「24時間テレビ」以外にも多数存在している。
他方では批判や嫌悪の対象になっていないことを考えれば、「24時間テレビ」の制作方法や番組のあり方自体に、少なからぬ問題があることは間違いないと言える。
チャリティーコンテンツへの不信感
チャリティー・コンテンツは、ともすれば「善意の商業利用ではないか?」「本当にチャリティーなのか?」といった不信感を持たれる。
そのような猜疑の目は出演する側、タレントや芸能人の中にも存在し、「24時間テレビ」からの出演依頼を断る有名芸能人も少なくないと言われる。
ましてや「24時間テレビ」は、民放テレビ局という営利企業が販売する「商品」であり、ボランティアではない。
「チャリティー」をテーマとしつつも、それはあくまでも「テーマ」であって、番組制作、放送、広告などがチャリティーではないことは誰の目にも明らかである。
テレビに限らず、出版でもイベントでも、チャリティーや福祉、環境問題や障害者などをテーマにしたイベントは多々ある。すべての構成要素や人材が完全なボランティアと言い切れるようなものは少ない。
むしろ、メディアにおけるチャリティー・コンテンツは、商業利用の側面がある一方で、啓蒙活動としての価値に大きな意味があり、そこから広がるチャリティーやボランティアの理解やムーヴメントは大きい。
「24時テレビ」が批判される2つの要因
「24時間テレビ」に対する批判や嫌悪が、急激に表面化し、国民的な議論へと発展してしまう背景には、「一億総ネット評論家時代」ともいえる社会状況がある。
SNSを使い、誰もが自分の主張を不特定多数に発信できるようになった。
決して少なくない頻度で、無名の個人(でしかも匿名)の意見が、社会性をもったオピニオンとして拡散されてしまう。
「24時間テレビ」への批判がネット炎上を着火点として加速している背景
欧米では、ハリウッドスターなどが無償でチャリティーイベントに参加するのは常識だが、「24時間テレビ」では、出演者にはしっかりとギャラが支払われる。
もちろん、高額ギャラの人気タレントたちが出演することで、視聴率を上げ、話題性が高まれば、広告価値が高まり、巨額の広告収益を生む。
それがテレビ局および周辺企業の売り上げとなるわけだが、この構造に対して不信感や嫌悪感を持ってしまう人は多い。
視聴者は「24時間テレビ」に対してチャリティーや福祉の啓蒙番組としての価値や意義を見いだせていない。
ギャラの寄付
2007年の「24時間テレビ」チャリティーマラソンにおいて、ギャラを全額寄付したと言われている、萩本欽一氏のエピソードが、番組における美談・逸話として有名である。
これが美談・逸話としてあつかわれること自体が「24時間テレビ」の特殊性を示していると言える。
「24時間テレビ」がチャリティーの理解を深めるための啓蒙活動として価値を持ち、そのための広報費、啓蒙活動費として「24時間テレビというビジネス」が許容できるなら、それほど大きな問題は起きない。
「24時間テレビ」で得られる収益や、そこでやり取りされる巨額なギャラなどは、チャリティーや障害者問題の啓蒙活動のための「必要経費の範囲内」と言えるのかもしれないし、そうでないとも言える。
「24時間テレビ」を炎上させる基本的な要因
2014年に起きた小保方晴子氏を中心とした「STAP細胞騒動」がある。この時は、匿名のネット民(だが、おそらく専門に精通した研究者)により、ネイチャー誌に掲載された論文から彼女の博士論文の検証がなされ、論文の取り下げはもとより、博士論文の取り消しにまで発展した。
2015年の「東京五輪エンブレム騒動」も同様だ。佐野研二郎氏によってデザインでされた東京五輪のエンブレムの類似指摘に端を発し、その後、続々と五輪エンブレム以外のあらゆるデザイン物に対して「パクリ」指摘が相次ぎ、その細かな検証結果は、ネットで拡散され、前代未聞となる五輪エンブレムの取り下げ、再公募となったことは記憶に新しい。
「24時間テレビ」を炎上させる基本的な要因は、「24時間テレビ」固有の問題 「チャリティー標榜ビジネス」と「一億総ネット評論家時代」という2つが当てはまる。
無数のチャリティー・コンテンツが存在する中で、なぜ、ここまで「24時間テレビ」が問題視され、各方面からの嫌悪感を持たれるのだろうか。
見透かされた制作側の意図
「24時間テレビ」がチャリティー・コンテンツの代表として批判されていること以上に炎上が加速し、鎮火しない最大の理由は、「24時間テレビ」固有の問題だ。
その固有の問題とは、「24時間テレビ」がもはやチャリティー番組などではなく、「障害者を素材にしたバラエティ番組」と変化しており、バラエティとチャリティの区分けが出来ない制作会社の力量不足を視聴者に見透かされてしまっている、という現実だ。
近年のバリアフリーの意識や社会インフラの盛り上がり、技術的な高まりに伴い、障害を持っている場合でも、ほとんど健常者と変わらない生活ができることも珍しくなくなり、パラリンピックなどで、国益を代表して大きく注目されるチャンスも増えてきた。
一方で、パッと見ただけでは障害とは思えない発達障害や学習障害の「障害」への理解も深まりつつある。
そして障害と健常とは明確に線引きできるものではない、という認識も深まっており、障害とはわかりづらい「グレーゾーン」の部分にこそ、多くの問題や課題が含まれている。
「目に見える」インパクト
その一方で、テレビという直感的なメディアでは、「分かりやすい=目に見える」インパクトが求められる。
油断すればスマホやパソコンなど、他のメディアに即座に視線を切り替えられてしまう。
故に直感的ではない、説明を要するような、わかりづらい「グレーゾーン」は扱わずに、結果、
「24時間テレビ」では、「分かりやすい障害」を扱いがちになってしまうことは想像に難くない。
もちろん、扱う場合の内容も、視聴者の関心を釘づけるために、障害者が露骨に「障害と戦う」「障害に苦しむ」姿を描かざるを得なるわけだ。
インパクトを追求するあまり目的をはき違えている企画に、苦しみだけが勇気を与える土台となって
なぜ足に障害のある少年に富士登山をさせるのか。
足に麻痺を持つ少年に一合目から富士山登頂を目指させるという昨年の企画。
これは「足に障害を持つ少年が、決死の努力によって富士登頂を果たす」という感動のストーリーを創り出す最適な素材なのだろうか。
「障害を克服する」というテーマで、視聴者を啓蒙し、また、障害に苦しむ人たちに勇気を与える大義名分が目的であれば、必ずしも「足が悪い少年」でなくても良いのではないか。
「足が悪い人」が「富士山」という日本で一番高い山に登ることにインパクトがあると考えているからこそ生まれる企画だろう。
苦しみや、克服への努力に貴賎の上下も障害のレベルもないはずだ。しかし、それでは「分かりづらい」。
「24時間テレビ」の企画・制作側が、本来の意義や意味は、何も考えていないというリアルでシビアな現実を理解する
チャリティーマラソン企画なども、そのような「わかりやすさ=視覚的なインパクト」を求めている以外の何物でもない。
なぜ、無目的に番組時間中、走りつづける必要があるのか。これは「タレントが苦しんでいる場面=感動」の置き換えに過ぎない。
ランナーとなるタレントたちは、その多くが「チャリティー」とも「福祉」とも「マラソン」とも無関係だ。そこに理由はない。なぜなら、視覚的なインパクトあるコンテンツという意味しか持たないからだ。
「24時間テレビ」に限った話ではないのであろうが、ここで重要なことは、現在の「24時間テレビ」の作り手が、「チャリティー番組」という本来の意義や意味は、何も考えていない/考えられていない、というリアルでシビアな現実を理解することであるように感じる。
同番組がチャリティー番組としての成長する過程で、いつの間にやら、「障害者を素材にしたバラエティ番組」へとメルトダウンしている。
そうなれば、作り手たちは、常日頃作っているバラエティ番組と同様に、「より過激に」「よりくだらなく」「インパクト重視」で企画を練り、作る。
そこに、チャリティー番組としての細かい検証などほとんどない。
なぜなら、「障害者を素材にしたバラエティ番組」なのだから。
残念ながら現場レベルでは、日々に仕事に追われ、番組スタート当初の志や意義などはほとんど継承されていないであろう。
オリエンタルラジオが「パーフェクトヒューマン」をダウン症の少女と躍るという企画
例えばオリエンタルラジオの「パーフェクトヒューマン」をダウン症の少女と躍るという企画も、歌詞の内容とダウン症という症状があまりに乖離しているといった批判があったが、客観的に考えて、制作側が、意図的に障害者を笑い者にしようとして、あるいは批判を覚悟の過激企画として「パーフェクトヒューマン」を選んだとは考え難い。
内容の不適切さに対する浅はかさは反省すべきだが、作り手はバラエティ番組として良かれと思って単純に「話題のヒット曲」と「障害者」を抱き合わせただけだろう。
制作側は、よりインパクトある、話題性がありそうな企画を、放送可能なギリギリのラインで狙っただけに過ぎないが、それ自体、感動を呼ぶとは考えないほうがいい。無理がある。
チャリティー番組と思うこと自体が問題なのか
「24時間テレビ」をチャリティー番組、福祉の啓蒙番組として認識することにも問題がある。
「障害者を素材にしたバラエティ番組」として捉えれば、あとは出演する人の解釈や倫理的問題、コンプライアンスの問題だが、出る出ない、見る見ないは、当事者の問題である。
「24時間テレビ」には、多くの障害者の方やその家族、関係者が登場している。
無理矢理出演させているわけではないのだから、当事者たちにも「24時間テレビ」には、まだ、出演する意味や意義が見出されている、ということでもある。
ただし、それらの人たちがみな、「24時間テレビ」の「障害者を素材にしたバラエティ番組」としての実態を理解しているかは、不明と言える。
放送を見て、驚く場合もあるかもしれない。
一方で、「障害者を素材にしたバラエティ番組」を障害者自身が許容し、あるいは楽しみに、そこに意義を見出すこともあると言える。
これまで積み重ねてきた歴史や経緯、社会的意義も失いかねない大きな問題だろうが、「24時間テレビ」がチャリティー番組ではなく、「バラエティ番組」という認識が広がれば、それはそれでまた新しいバリアフリー番組のあり方も生まれてくるように思う。
現在のようなチャリティーという透明マントで覆った利権・営利の塊りでできた番組は、チャリティーの看板を下ろし、「障害者を素材にしたバラエティ番組」として再出発してはいかがなものか。
企画・制作側のマンネリや押し付けられる感動には、既に視聴者は辟易している。
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